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源氏物語【30】平安時代のカレンダー

【30】平安時代のカレンダー


今回は貴族が使っていた暦の話題です。



◆平安貴族の日記帳


日記文学は『土佐日記』にしろ『蜻蛉日記』にしろ、
もとのメモを後から書き直したと思われるものがほとんどです。
しかし貴族男性にはメモをそのまま遺した人たちがあり、
研究者たちに重宝されています。

かれらがその日のできごとを書き込んだのは、主に暦でした。
現在のカレンダーにも、日付の下や横に
書き込みスペースがついていたりしますが、
同じようなものが昔からあったのです。

紫式部が仕えた一条天皇の中宮彰子(あきこ/しょうし)の父
藤原道長も、暦に日記をつけていた人物のひとり。

のちに『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と呼ばれることになる
この日記を見ると、その日に宮廷で何が行われたかだけでなく、
どの官僚が仕事をさぼったか、誰が賄賂を贈ってきたか、
ちょっとした病気のときはどんな薬を服用していたかなど、
ずいぶん細かいことまでわかります。


◆頼りない陰陽師たち


当時一般に用いられた暦は具注歴(ぐちゅうれき)というもの。
注を具(そな)えた暦という意味で、
年中行事、毎日の吉凶や禁忌などが細かに書き込まれていました。
暦は巻物になっていて、一年分が上下二巻に分かれています。

現代とちがって、暦は日付と曜日だけわかればよい
というものではありませんでした。

たとえば『御堂関白記』の寛弘5年(1008年)7月9日の条(くだり)に、
中宮彰子が退出する先の里邸が大将軍の遊行する方角なので
退出を取りやめたとあります。
暦に大将軍のいる方角が書かれていたのです。

どの方角にどの神がいるかで、さまざまな行いが制限されました。
中でも大将軍という神は、あちこち複雑に移動する
とりわけ厄介な神だったようです。

『源氏物語』にもたびたび物忌(ものいみ)や方たがえが描かれます。
いちいち占ってもらうこともありましたが、人々は
日常的にはこういう暦にしたがって生活していたのです。
(バックナンバー《9》参照)

暦を作っていたのは陰陽師(おんみょうじ)たち。
かれらは毎年11月1日に新しい具注暦を天皇に奏進しました。
この儀式を御暦の奏(ごりゃくのそう)といいます。

暦の巻末にはそれを書いた陰陽師の署名があり、
責任の所在が明らかになっていました。

ところが上記の道長の日記には、中宮を退出させるため
陰陽師たちに対策会議をさせても何を言っているのかわからず、
結局退出できないままになったと書いてあります。

当時の暦は中国の暦法をそのまま用いたものでした。
まだ自力で作る知識も技術もなかったためで、
江戸時代に渋川春海(しぶかわはるみ 1639-1715)が
純国産の暦を完成させるまで、
日本はずっと借り物の暦を使っていたのです。

道長に呼ばれた陰陽師たち、
自分達の知識に自信がなかったのかも知れません。

※わが国最古の自筆日記とされる『御堂関白記』は
文部科学省によって世界記憶遺産への登録が申請されています。