【66】捨てられる人形 愛される人形
今回は平安時代の人形の役割りについて。
◆身代わりとしての人形
「須磨」の巻の最後、光源氏は
なまさかしき人(知ったかぶりする人)に勧められ、
海に出て禊(みそぎ)を行います。
いとおろそかに軟障ばかりを引きめぐらして
この国に通ひける陰陽師召して祓へせさせたまふ
舟にことことしき人形のせて流すを見たまふによそへられて
知らざりし大海の原に流れ来て ひとかたにやはものは悲しき
たいへん簡素に軟障(ぜじょう=壁代)だけを引いてその場を囲み
須磨に行き来していた陰陽師を呼んで祓いをさせなさる
舟に大げさな人形(ひとがた)を載せて流すのをご覧になると
わが身の上が思われて
見も知らぬ大海原を流れてきて ひとかたならず悲しく思われることだ
この日は三月最初の巳(み)の日でした。
五月最初の午(うま)の日を端午(たんご)と呼ぶように、
最初の巳なので上巳(じょうし)といい、
祓(はらえ)を行う風習があったのです。
今でも流し雛を行う地方がありますが、
この日は祓をして川や海などに人形を流しました。
人形は人間の身代わりになる形代(かたしろ)で、
人形で体をなでたり祈祷したりして穢れやわざわいを人形に移し、
水に流したのです。
◆人形の世界にも格差あり
「須磨」から五年後、
「薄雲」の巻で源氏が明石の姫君を二条院に迎える場面に
天児(あまがつ)と呼ばれる人形が出てきます。
絵巻の類を見るとずいぶん簡素な小さい人形で、
特にかわいいともきれいとも思えませんが、
これもまた形代でした。
幼児の姿をしているのは身代わりとなるため。
降りかかるわざわいを幼児に代わって身に受ける、
魔よけの役目を果たしていたのです。
時間を遡って「若紫」の巻には、
源氏がまだ幼い若紫(のちの紫の上)と
雛(ひいな)で遊んだとあります。
こちらは呪術的な意味はなく、人形を使った単なるままごと遊び。
絵巻にはドールハウスのような御殿の中に
着飾った人形をならべて遊ぶ若紫が描かれています。
形代とは比べものにならないセレブな人形たちです。
清少納言は『枕草子』の
「うつくしきもの」の段に「雛の調度」を採り上げ、
「ちひさきものはみなうつくし」と手放しでほめています。
人形の家や家具、道具類にいたるまで、
かなり立派な、凝ったものだったようです。
ところで、平安時代の雛遊びは三月の雛祭りとは関係なく、
貴族の女の子の日常的な人形遊びのことをいいます。
わたしたちが知っているような三月三日の雛飾りは
江戸時代になってから誕生したものです。